前向きにお願いします

不定期に「初心者の主張」を綴ります(゚Д゚;)
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「稚魚選別」を巡る
対立というか喧嘩というか論争というか…
「インターネット金魚界」の
この時期の風物詩と聞きました。

 
私は初めて見るのですが、
チラホラ見かけます。
選別には、いろんな意見があるようです。
ある方は「100人居たら100人意見が違う」と
仰ってました。

 
例えば…
①どんな事があっても殺してはいけない
②手元に置けない金魚はどこかへ譲れ
③逆に、店に持っていくぐらいなら自分で処分しろ
④良い金魚のためには選別は仕方ない
⑤むしろ積極的に選別はすべきだ

 
人間の「死刑」や堕胎に関しての
議論とは同列視できませんが、
死生観とか倫理観が関わる話ですから、
多種多様な意見があって当然。

 
真反対の意見があって、
互いに譲らないから対立を招く。
ただ、私のような初心者から見ると、
そういう論戦や対立自体が、
非常に不可思議に思えます。

 
①から⑤までそれぞれの
正当な理由があるでしょうし、
すべてに反対意見を出せる気がします。
だから他の人のやり方や考え方、
感じ方を批判したところで、
何も生まれないのではないかと。

 
特にインターネットは、
「気に入らなければ見なきゃいい」
わけですから、意見が違う人の文章は
見てみぬふりをすれば良いのに…
と思わざるをえないです。

 
けっきょく、どの立場に立とうと、
人間が金魚を作ってしまった、って「罪」からは
誰も逃れられないと思うんです。

 
食べもしない、自然に戻せない魚を
人間が何百年とかけて作った。
その間には想像もつかないほどの
大くの命が犠牲になったり、
適当に扱われたりしてるわけですから。

 
以前にも書いたですが、
金魚を楽しむ人は等しく、
「原罪」を共有していると
私は思うんです。

 
極論すれば、ですが。
親魚を殺すのと、
稚魚を殺すのと、
受精卵を流すのと、
「命を消す」という点では違いはない。
稚魚やタマゴを他の魚に食わすことだって同じ。
稚魚に食わすブラインシュリンプだって、
ミジンコだって同じ命。
自分が直接手を下してない人だって、
罪から逃れられるわけじゃない。

 
選別淘汰の苦悩を乗り越えず、
その結果だけを楽しむ方が遥かに罪深いとも言えます。
自分が「命」と思う範囲だけ、
自分が痛みを感じる範囲だけ、
敏感になれば、それが「倫理的」って
考えるのは、少々傲慢だと思ってしまう。

 
もちろん、初めて金魚に関わる人もすべて、
その原罪を自覚すべき、なんて話じゃないです。
単に可愛いから飼う、で良いと思います。
だけど、金魚に少しでも深く関わって、
「良い金魚」を求めた時点では、
自覚せざるを得ないんじゃないでしょうか。

 
原罪の自覚があれば、
他人の選別のやり方を軽々に論難したり
できないんじゃないですかね…
私はクリスチャンではありませんが、
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
 まず、この女に石を投げなさい」
ってことかと。

 
綺麗事でなく、
私は「良い金魚を作りたい」と
選別をする人たちの情熱に
敬意を表します。

 
心を鬼にして選別する人もいれば、
哀しみを消化できずに
選別に立ち向かい続けている人も
知ってます。

 
中には偽悪的に振舞う人もいますし、
本当に麻痺しちゃった人もゼロではないかも。

 
でも、殺したくて殺してる人なんて
いないと思います。
繁殖を金魚業界では「仔引き」と言い習わすのは、
選別淘汰が前提の「文化」として、
受け継がれてきてる証左でもあるでしょうから、
その文化を引き継いでいってほしいとも思います。
反面、選別を忌避する人たちの心優しさにも
敬意を表します。

 
そもそも卵は採らない、という
人たちも知ってますが、
それも命への一つの敬意の表し方でしょうし、
金魚の楽しみ方だと思います。

 
「生まれたら全部育てる」という
選択肢が選べるなら、素晴らしいと思います。
ただ、大量に育った金魚の
流通や頒布の規模によっては、
「良い金魚」を遺して後世に繋ぎたいと
繁殖されてる人たちの努力を阻害する恐れもあるという点は、
十分ご留意すべきなのかな、と
素人ながらに思います。

 
個人ブリーダーさんがネットで大量に、
あまり選別せず育てた金魚を販売して、
特定の魚種の価値(価格)が一気に落ちてしまう、
ってこともあるそうですから。

 
ただでさえ、育てる労力の割に値段の安い金魚。
養殖や繁殖で生計を立ててる方に迷惑にならないよう、
育てた金魚は最後まで面倒を見る覚悟で
お願いしたいものです。

 

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長々と書きましたが、
選別に対する考え方や感性は、人それぞれで、
環境も違えば、目的も違うわけで。
私のように、金魚を飼い始めたばかりで、
これからもう少しだけ深く関わってみたいと、
思ってる人間から見ると、
繁殖に対する立場の違いで、
他人を罵倒したりするシーンは、
ただただ驚くばかりで。

 
「なにこの業界(゚Д゚;)」と感じてしまうんです。

 
言葉は良くないですが、
「共犯者の内輪もめ」にしか見えないです。
選別を含む繁殖の話、もっとネットで読みたいのに、
「その話は書かない方が良い」と自制されてる
人たちは少なからずおられるようで。
とても残念です。

 
対立してる人、批判してる人、煽る人、
それに対し不快になってる人、
皆さん同じ「金魚好き」なわけですから。
立場の違いは踏まえたうえで、
それぞれの金魚の愛し方を、少しだけ尊重して、
どうしても認めたくなければスルーして(笑)
って方向になれば良いのに、と切に思います。

 
一言でいえば、
諸先輩方、できるだけ前向きにお願いします!
って、批判めいたことばかり普段書いてる
私が言っても意味ないですね(゚Д゚;)

 

金魚は大海原を夢見るの?

不定期に「初心者の主張」を綴ります(゚Д゚;)
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綺麗・優雅・可愛い…
金魚のイメージってこんなところですかね。
近年だと「癒し」がキーワードになってるかも。
それは海外でもそうなんですね。

 
ネットで調べ物をしてて、たまたま見つけたのですが。
『運動靴と赤い金魚』(1997年、イラン)って映画には、
傷ついた少年の足を、金魚が舐めて癒してくれる
というシーンがあるそうです。
こちらのブログに写真がありました~
http://claranomor.exblog.jp/8728839/

 
ドクターフィッシュ顔負けですね~。
同じコイ科の魚ですけど(゚Д゚;)
この映画はぜひ見たいですね。

 
で、ふと思ったんですが、
日本の映画での金魚の扱いって…
ちょっとネガティブじゃないですか?
優雅・可愛いというイメージを利用しつつ、
「幽閉された惨めな魚」「泳ぎの下手な魚」という
隠喩として利用されてるケースがけっこうある気がします。
思いつくままに挙げると…

 
『大奥』(2006年、東映)
『さくらん』(2007年、アスミック・エース)
『海の金魚』(2010年、ティ・ジョイ)

 
私は最近、あまり映画を見てないので、
偉そうに批評する立場にないことは、
あらかじめお断りしておきます。
ピントが外れててもご容赦を。

 
あ、『バタアシ金魚』(1990年、シネセゾン)の
「金魚」も泳ぎが下手って意味でしたっけ?
(記憶が曖昧なので間違ってたらすいません)
(というか原作漫画を挙げるべきですね…)

 
『大奥』では、不自由な立場の主人公を
金魚柄の和服で表現してます。
『さくらん』では、何度もスクリーンに登場する金魚が、
幽閉された花魁の隠喩として扱われてるように見える。

 
『海の金魚』は見てませんが、
映画の公式サイトを見ると、
ちょっと噴飯ものの説明文が…(笑)
> (前略)不安と苦悩に押しつぶされそうな
> 彼らの思春期の姿。
> それはまるで大海原で自由に泳ぐことを
> 夢見る金魚鉢の中の金魚だ。

 
金魚、大海原を夢見ないですよ(゚Д゚;)

 

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金魚は「不自由」で可哀想…
本来は広いところでのびのび泳ぎたいのに、
人間が狭いところに押し込んで、
惨めな思いをさせている――ってのが、
イメージとしてあるんでしょうか…
そもそも金魚は人間が改良に改良を重ねて
今に至っている魚種。
比較的汚れにも強いし、生息温度も広い。
性格も原種のフナより温厚だと聞きます。
金魚、自然界には居ないし、
居てはいけない魚ですよね?

 
放流しないよう懸命に呼びかけてる
団体もあるぐらいで。
生態系を壊しますからね。
そりゃ、広いところで飼えるなら、
それに越したことはないでしょう。
金魚鉢よりは水槽、それよりは池で…

 
でも、金魚を「自由」にしちゃ
いけないんじゃないかと(゚Д゚;)

 
「ある程度の不自由」に適合できるように、
人間が手を加え続けてきた金魚を、
「不自由だから哀しい」って
捉え続けられるのはちょっと寂しいですね。
確かに金魚には「哀しみ」や「狂気」が
つきまとう側面もありますが、
「狭いから可哀想」では、
少々ステロタイプで浅いイメージって気が(゚Д゚;)

 
でも、金魚がメディアに出ること自体は、
歓迎すべきですねヽ(´ー`)ノ
これとは逆に、金魚の扱いが、
幼児性の象徴みたいな、明るくてバカっぽいって
イメージばかりでも困りますしね…(笑)